このウェブサイトは、現代思想系の評論家である町口哲生の公式ウェブサイトです。
サイト名の infinite phase space(略はi.p.s.)とは、「無限位相空間」という訳が適切です。
「位相空間」とは、ある物体あるいは系の状態を規定するのに必要なだけの座標をもつように構成された仮想空間のことです。
そうした仮想空間を無限にループさせることで、「海賊のユートピア」のフリーゾーンを作ろうという意図でウェブサイトを開設しました。
2009年4月8日正式オープン。
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★ハキム・ベイ『T.A.Z. 一時的自律ゾーン』(箕輪祐訳)、インパクト出版会
今日のアナーキストの「運動」は事実上、黒人、ヒスパニック、ネイティヴ・アメリカン、そして子どもたちを巻き込んでいない。(理論的には)そのように生来抑圧された集団こそ、あらゆる反権威主義者的な反抗から最も利益を得るであろうにもかかわらず。アナーキイズムは、真に剥奪された者がそれによって現実の必要と欲望とを満たす(あるいは、最低でも満たそうと現実的に闘争する)ための具体的なプログラムを、提示していないのではないだろうか?(中略)我々は68年のシチュアシオニズムや70年代のアウトノミア運動によって中断された闘争を手に入れ、それを次なる段階へと伝達することができるのではなかろうか。(中略)その過程で、我々は自ら多くの「真実の欲望」を理解できることだろう、その欲望が、ただ一時期の、短い「海賊のユートピア」のフリーゾーンのためのものであったとしても。
★ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」(『ベンヤミン・コレクションT』所収、久保哲司訳)、ちくま学芸文庫
思考するということには、さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる。思考がもろもろの緊張に飽和した状況布置において突然停止すると、そのとき、停止した思考がこの状況にひとつのショックを与え、そのショックによって思考はモナドとして結晶化する。歴史的対象がモナドとなって歴史的唯物論者に向かいあうとき、もっぱらそのときにのみ、彼は歴史的対象に近づく。この構造のなかに彼は出来事のメシア的停止のしるしを、言いかえれば、抑圧された過去を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンスのしるしを認識するのだ。
★ロラン・バルト『明るい部屋』(花輪光訳)、みすず書房
ある顔がもつ雰囲気は、分解できない(もし分解できるということになると、私は立証したり、異議をとなえたりするようになり、要するに疑うことになるので、本来完全に明白なものであるはずの「写真」から離れてしまう。明白なものとは、分解することを許さないものなのである)。雰囲気というのは、ものの姿や形とちがって、図形的、知的な所与ではない。それはまた、《似ている》場合と違って、たとえ酷似していても、単なる類似性の問題ではない。いや、雰囲気というのは、肉体から魂へ、ある人にあっては善良な、またある人にあっては性悪な、個人の小さな魂へ人を導く、この世の常ならぬものである。
★ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル−フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(原書1990年、竹村和子訳)、青土社→more
ジェンダーの抑圧が作動するさいの個々の文化の個別性を認めないことは、一種の認識論的な帝国主義なのではないか。個々の文化の差異を、いかなる場合も同一である男根ロゴス中心主義の「例」として説明するだけでは、とうていそのような帝国主義を改めることにはならない。さまざまな《他者》の文化を、世界規模の男根ロゴス中心主義が多様に拡大したものとしてしか見ず、それに包括してしまうことは、そうでなければ全体化の概念に疑義をつきつけたかもしれないさまざまな差異を、同一性の記号のもとに植民地化することになる。したがってそれは、男根ロゴス中心主義の勢力拡大の身ぶりを、みずから反復してしまう危険性をもつ行為なのである。
★ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(原書1991年、財津理訳)、河出書房新社→more
哲学者は概念の友である、哲学者は力=潜勢態において概念をそなえている。ということは、哲学は概念を形成したり、考案したり、製作したりする技術にとどまらないということだ。なぜなら、概念は必ずしも、形や、思いつきや、製品ではないからである。より厳密に言うなら、哲学は、概念を創造することを本領とする学問分野である。友とは、もしかするとおのれ自身の創造物の友ではないだろうか。あるいは、概念の現働態こそが、創造者とその分身との統一において、友の力=潜勢態を指し示しているのではないだろうか。つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的なのである。
★ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳)、平凡社
コミュニケーションの言語がなくなったという事実、それこそが、あらゆる芸術を解体し、完全に消滅させる現代の運動が積極的に表していることである。この運動が消極的に表しているものは、共通言語を再び見出さねばならないという事実である。それも、もはや一方的な結論のなかにではなく、直接的な活動と自分自身の言語とを己れのうちに結集する実践のなかにこそ発見せねばならない。詩的−芸術的作品によって表象されてきた対話による共同体や時間との戯れを、実際に所有することが重要なのである。
★ミシェル・フーコー『知の考古学』(中村雄二郎訳)、河出書房新社
歴史とは、(書物、テキスト、物語、帳簿、証書、建造物、制度、取決め、技術、物件、慣習などの)記録的物質性=素材性にかかわる仕事であり、その物質性を作品化することである。そして、この物質性たるや、いつでもどこでも、あらゆる社会において、自然発生的なものであれ人間が組織したものであれ、残存の形を与えるものなのだ。記録は、それ自身としても、正当な権利からいっても、〈記憶〉でありうるような、歴史の好都合な道具ではない。歴史とは、一つの社会にとって、大量の記録、歴史がそこから離れられない記録、に対して、規約を与え、仕上げる、或る一つの仕方なのである。
★ハンナ・アレント『人間の条件』(原書1958年、志水速雄訳)、ちくま学芸文庫→more
活動者は常に他の活動者の間を動き、他の活動者と関係をもつ。だから活動者というのは、「行為者」であるだけでなく、同時に常に受難者でもある。行なうことと被害を蒙るということは、同じ硬貨の表と裏のようなものだからである。そして、活動によって始まる物語は、活動の結果である行為と受難によって成り立っている。しかし活動の結果には限界がない。なるほど活動は、それ自体新しい「始まり」である。しかし、活動は人間関係の網の目という環境の中で行なわれる。この環境の中では、一つ一つの反動が一連の反動となり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となる。このために、活動の結果には限界がないのである。
★ジャン=リュック・ナンシー『水と火』(吉田晴海訳)、現代企画室 →more
「私は考える、ゆえに私は存在する」のではなく、「私はそこに存在する、私はそこで考える」のである。すなわち、思考されたものは、そこで自己を見つけ、思考はそこで思考の固有の重さを持つ。
★ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」(原書1972年、『哲学の余白・下』所収、藤本一勇訳)、法政大学出版局→more
書くことは、それ自体が一種の生産機械となるような標記を生産することである。そして未来における私の消滅はこの標記が機能することを原理上妨げえないし、この標記がひとに読むべきものおよび書きなおすべきものを与えることを、すなわちこの標記がみずからを読まれるべきものおよび書きなおされるべきものとしてひとに与えることを妨げることはできない。私が「未来における私の消滅」と言ったのは、この命題をもっとじかに受け入れやすくするためである。むしろ私の端的な消滅、私の非−現前性一般とさえ言えるはずだ。例えば、標記の発信ないし生産において、私の〈言わんとする作用〉が非−現前であると、私の意味志向が、私の〈これを伝達したい〉が非−現前である、と。書かれたものが書かれたものであるためには、それは「振る舞い」続け、読解可能であり続けなければならない。たとえその書き物の作者と呼ばれるものが自分の書いたものについて、彼が署名したと思われるものについてもはや責任をもつことができないとしても。
★ルイ・アルチュセール『愛と文体T』(阿尾安泰ほか訳)、藤原書店
楽ではない ここでの生活
幻覚にかかったような奇妙な帰還
再び僕はここに舞い戻ってきた、いや、ここじゃない、ではいったいどこに?
構造のない時間 場所のない空間
寄る辺なき 波止場なき 浮標なき 海岸なき 走行不能の
酔いどれ船 もし僕が船であるなら しかし海へと運び出してくれる河もなし
酔いどれ、確かにそうかもしれぬ、ただし酩酊が反意語をもつならだが、暗がりに覆われたその半面を
その影を その裏面を 名のないその夜を
自我は抜け去り 蛻の殻 中身なき壺
僕のもとに残るは言葉 すべての言葉ではない どの言葉が残っているかを知るべし
だだ一つ僕のもとに救いが残っていることを知っている
仕事という長い迂回 この力の放出の中に自己を投錨しておくこと
忍耐強く 粘り強く 読むこと 言うこと
★エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』(松本伊瑳子・国領苑子・藤倉恵子編訳)、紀伊國屋書店
しかし創造的主体の中に、他者や多様な人がたくさんいる、言い換えれば、自己を離脱し、省察を加え、無意識に活力を求める人々がいなければ、哲学であれ詩であれ真の創造活動を行うことはできません。こうすることによって、砂漠が突然活気づき、今まで知らなかった自我−女たち、怪物、ジャッカル、アラブ人、同類、恐怖−が立ち現れてくるのです。自我の中にある「主体をはみでるもの」が、ある種の同性愛(つまり両性具有性の操作)によって結晶化されることがなければ、他の「私」、ポエジー、フィクションを創造することはできません。「新しい私」は、個性的で豊かで陽気、男性的でもあれば女性的でもあり、もっと別の存在になることもできます。そして別の存在になって、「私」は、誘惑したり、悩んだりするのです。
★アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『マルチチュード(下)』(原書2004年、幾島幸子訳、水嶋一憲・市田良彦監修)、日本放送出版協会→more
グローバルな闘争サイクルは、分散型ネットワークとして発展する。個々の地域における闘いは一つの節点(ノード)として他のすべての節点とコミュニケートするが、そこには知性の中枢や中心となるものは存在しない。個々の闘いはあくまで特異的であり、その地域状況に結びついているが、同時に共通の網状組織(ウェブ)のなかに組み込まれているのだ。こうした組織形態は、私たちが抱くマルチチュードの概念をあますところなく政治的に実現したものだといえる。〈共〉のグローバルな広がりは、そのネットワークに参加する個々の存在の特異性を否定しない。新しいグローバルな闘争サイクルはマルチチュードを組織し、動員するのだ。
引用者註
マルチチュード(multitude):多数性、ネットワーク上の身体=集団
共(common):共通の(もの)、共同の(もの)、共有の(もの)
★スラヴォイ・ジジェク「人権の概念とその変遷」(原書2006年、『人権と国家−世界の本質をめぐる考察』所収、岡崎玲子訳)、集英社新書→more
〈普遍的人権〉は、政治以前のものであるどころか、政治問題化とは何かを定義づける。それは普遍性それ自体への権利に等しい。政治的主体が、固有のアイデンティティにおいて自身との本質的な非偶然性を主張する権利、まさに社会の組織の中で居場所を持たない〈役のない役〉という〈エキストラ〉、〈社会〉それ自体の普遍性の行為者として自らを措定できる権利なのだ。このパラドックスは非常に明確であり、普遍的な人権とは非−人間性に陥るほど弱体化された者の権利だという逆説と対になっている。普遍的で〈メタ・ポリティカル〉な人権の言及なしに市民の政治的権利を理解しようと試みる瞬間、我々は政治というものを失ってしまう。すなわち、政治を特殊利益の交渉という〈ポスト・ポリティクス〉的行為に至らしめてしまうのだ。
★ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介+高地薫ほか訳)、作品社
ここでエグザイルということばをわけもなく用いたわけではない。われわれはみな、人々が「ルーツ」を「さがす」にとどまらず、自分たちの「アイデンティティ」を「探索」し「発見」し、あげくの果てにはそれを「失いそうになっている」と絶え間なく口ばしるのを、嫌というほど耳にしている。しかし、かつての魂の住みかを目指して自己の内面へと歩んでいくといえば聞こえはいいが、実はアイデンティティを探索するとは、現実のセンサスや想像上のセンサスに表示されることを目指して、外側へと進んでいくことなのである。センサスにおいては、資本主義、国家機構、数学的手法のおかげで、整数化された身体は同一の取替え可能な単位(identical)となり、系列状に集計されて幻想の共同体をつくるのである。そのうえ、今日のわれわれの世界においては、そのような共同体は、もはや、既存の国民国家の領土内におさまることはない。……第二次世界大戦後の通信手段と輸送手段の革命は、ポスト産業化時代の世界資本主義と結びついて、史上空前の規模におよぶ、ナショナルな枠を越える移民たちを生みだしてきたのだ。この同じ力がはたらいて、「ディアスポラ」という集合的主体が形成された。「ディアスポラ」とは、センサスと同じ流儀で、限定型の系列として想像されたものである。
引用者註
エグザイル(exile):故国喪失(者)、亡命(者)、国外追放(者)
センサス(census):人口調査
ディアスポラ(Diaspora):離散した人々(元々は離散したユダヤ人を指した)
★エドワード・W・サイード『文化と帝国主義 1』(原書1993年、大橋洋一訳)、みすず書房→more
わたしたちが扱うのは、ある重要な意味において、文化的アイデンティティの形成なのだが、この文化的アイデンティティは、これこれが本質であるというようなかたちではなく……対位法的に全体との関わりのなかで見いだされゆくものである。なにしろ、いかなるアイデンティティといえども、孤立しては存在できず、敵対項や否定項や反対項の一群なくして存在しえないことは自明の理であるからだ。……しかもわたしたちの時代において、「イスラム」とか「西洋」とか「オリエント」とか「日本」とか「ヨーロッパ」を不変の本質に固定しようとする大がかりな試みにおいても、他者の文化に関する、独自の知識、ならびに姿勢と言及の構造をたずさえている。このような構造こそ、慎重な分析と研究調査を要するのである。
★ジャン・ボードリヤール『悪の知性』(原書2004年、塚原史+久保昭博訳)、NTT出版→more
日常生活がますます腐食し、凡庸になり、相互作用化するにつれて、複雑で秘伝伝授的なゲームの規則によって、この動きにますます反抗しなくてはならない。現実が対象=客体をもたない普遍性のなかで、現実の観念とますます一致するにつれて、秘伝伝授的な断絶と幻想のパワーをますます探し求めなくてはならない。……創造されたあらゆる対象=モノは、視覚的でも分析的でも、概念的でも写真的でも、ゲームのあらゆる次元を唯一の次元のうちに再発見しなくてはならない。それはアレゴリー的で、表象的(ミミクリー)で、闘技的(アゴーン)で、偶然的(アレア)で、めまいのような(イリンクス)次元だ。スペクトルを再構成すること。ひとつの作品、ひとつのオブジェ、ひとつの建築、ひとつの写真、そればかりでなく、ひとつの犯罪や出来事も、何ものかのアレゴリー、誰かへの挑戦となって、偶然を危険にさらし、めまいをもたらさなくてはならない。
★エメ・セゼール「植民地主義論」(『帰郷ノート/植民地主義論』所収、砂野幸稔訳)、平凡社ライブラリー
私は帝国主義によって破壊された諸社会を無条件に擁護する。それらの社会は実体であった。理念となろうなどという思い上がりはまったくもっていなかった。それらの社会は、その欠点にもかかわらず、憎むべきものでも、非難すべきものでもなかった。それらの社会は、ただ存在するのみであった。それらの社会にとっては、挫折という言葉も厄災という言葉も意味を成さなかった。それらの社会は、無傷で、希望を保っていた。
★パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ−トランスジェンダーの政治学』(竹村和子解説、石倉由・吉池祥子他訳)、作品社
現在、ますます可視的になっているトランスセクシュアル・コミュニティは、別の選択肢を創り出した。女性でも男性でもなくトランスジェンダーであることに同一化することであり、このようなラベルづけを生み出す二極的ジェンダー・システムに疑問を投げかけることだ。男性または女性として「パス」できない人々は、歯に衣着せぬジェンダー活動家になろうと、失うものはほとんど持たない。困難な仕事であれ、逃げ出し隠れようとするより、抑圧と闘う方が気持ちが良い。時に敗れたとしても恥じらう必要はない。どんな戦士でも時々は負けるものだ。負けるにしても、一般人の死傷者よりは戦士の方が良い。たとえ、その生活が恐怖に満ち危険にさらされるものであろうと、戦士はその生き方のスタンスから、誇りと尊厳を得ることができるのだ。
★フランツ・ファノン『地に呪われたる者』(鈴木道彦・浦野衣子訳)、みすず書房
こうして生まれる脅威は、権威の強化と独裁の出現を導くであろう。指導者は、活動家でありまた献身的愛国者であった過去を背後に持っているが、この特権層のたくらみを保証し、これらブルジョワの厚顔や凡庸、心底までの背徳性に目を閉じるために、今や自ら民衆と貪婪なブルジョワジーをへだてる衝立となる。彼は民衆の自覚を遅らせることに貢献する。この特権層を救いにかけつけ、民衆の目から彼らの策略を隠蔽し、かくて大衆を瞞着し大衆を眠りこませる仕事の熱烈な職人となる。
引用者註
脱植民地化したのに、なぜ独裁国家になるかが分かる。
★ポール・ヴィリリオ『パニック都市−メトロポリティクスとテロリズム』(原書2004年、竹内孝宏訳)、平凡社→more
情報戦争(INFOWAR)は、アメリカ軍をして、バクダッドの考古学博物館と図書館がわれわれの目の前で、また無防備のまま完全な廃墟と化していくのを放置させた。……こうして、メソポタミアの記憶が荒らされシュメールの宝物が強奪されたあと、「情報の戦争」はその本来の姿をあきらかにしていった。それは〈歴史〉に対する闘争であり、さまざまな起源を破壊する試みなのである。予防戦争。あれこれの暴君に対するというよりも、むしろ「記憶のおよばぬほど過去」の記憶に対する予防戦争。……「霧は時間を、見つけたときのまま残しておく」と、諺はいう……。戦争の霧は、もはやわれわれに時間を残すことすらしない。
★フィリップ・ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(原書2002年、藤本一勇訳)、藤原書店 →more
ルソーは模倣としての模倣を断罪しているわけではない。彼が断罪するのは「詩的」あるいは「創作的」な模倣だけである。言い換えれば、それが「精神上の」ものであろうとなかろうと、その語のもっとも疑わしい意味で好みにあうことのみを目的とするような、そんな一切の「生産」を断罪するのである。演劇では、「存在するもの」は、「〈存在〉」は、「私たちの同類」として提示[現前化]される。そのとき模倣は、「巧みに作られた」ものとなり、「模倣の真理性」ということさえ言われるようになる。しかし演劇は幻想しか(再)提示[(再)現前化=表象]しない。それは、使用される手段が何であれ(すなわち笑いであれ涙であれ)、幻想(あるいは「虚構」)のみが「好みにあう」からという単純な理由による。さらにまさにこの理由から直接的に、今度はカタルシスが幻想であることが説明される。すなわちカタルシスは誤った邪悪な安堵であり、中身のない有害な安堵である、というのだ。
★ジョルジョ・アガンベン『例外状態』(原書2003年、上村忠男・中村勝己訳)、未来社 →more
例外状態は今日、その惑星的な規模での最大限の展開を達成するにいたっている。法の規範的側面は統治の暴力によってもののみごとに忘却され論駁されてしまっており、国外では国際法を無視し、国外では恒常的例外状態をつくり出しながら、それにもかかわらず、なおも法を適用しつつあるふりをしているのである。……わたしたちの文化の緊張の場にあっては、二つの対立しあう力が働いているのである。一方はものごとを制定し設定する力であり、他方はものごとを不活性化し撤廃する力である。……例外状態のなかにあって生きるということは、こうした可能性を二つながらに経験することを意味すると同時に、しかしまた、この二つの力を事あるごとに分離することによって、西洋を世界的内戦に導きつつあるあの機械の作動を中断させるべく、休むことなく試みることをも意味する。
★サラ・コフマン『芸術の幼年期−フロイト美学の一解釈』(原書1985年、赤羽研三訳)、水声社→more
天賦の才donというのは、《神》の「賜物don」あるいは「良き自然」ではない。それは生まれつき備わったものではなく、二重の決定論、あるいは二重の偶然−すなわち、心的諸力の働きの偶然、とりわけ芸術家のうちで高まってくるある量の情動の偶然と、欲動の特殊な運命、すなわち昇華の運命へのある種の性向の偶然−の、そして最後に、芸術家が味わわなければならなかった様々な経験の偶然の結果なのである。人間たちが「才能」、特別の素質、「天賦の才」と呼ぶものは、ただ一つの備給だけが並外れた力をもって展開したという事実によって説明可能な幻想なのである。支配的ないかなる「天賦の才」も他の諸力の依託etayageによって強化された支配的な欲動でしかない。したがって「天賦の才」の問題は何よりも量の問題、最初のリビドーの量、抑圧されたリビドーの量、多少とも大きな昇華能力といったものの問題なのである。
★ガヤトリ・C・スピヴァク『ある学問の死 惑星思考の比較文学へ』(原書2003年、上村忠男・鈴木聡訳)、みすず書房→more
わたしは惑星(planet)という言葉を地球(globe)という言葉への重ね書きとして提案する。グローバリゼーションとは、同一の為替システムを地球上のいたるところに押しつけることを意味している。わたしたちは現在、電子化された資本の格子状配列のうちに、緯度線と経度線で覆われた抽象的な球体をつくりあげている。そこには、かつては赤道や南北回帰線等々であったものの位置にいまや地理情報システムの要求するところにしたがって引きなおされた仮想上の線が刻みこまれている。いまだ十分に検証されていない環境主義によって、差異化された政治的空間よりはむしろ分割されていない「自然の」空間なるものに言及しつつ、惑星の話(planet-talk)をすることは、抽象性それ自体という様態をとったこのグローバリゼーションの利益のために仕事をすることになりかねない。……地球は、わたしたちのコンピューター上に存在している。そこには、だれも暮らしていない。それは、わたしたちがそれをコントロールすることをもくろむことができるかのように、わたしたちに想わせる。これにたいして、惑星は種々の他なるもの(alterity)のなかに存在しており、別のシステムに属している。にもかかわらず、わたしたちはそこに住んでいる。それを借り受けて。
★ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」(初出1985年、『サイボーグ・フェミニズム』所収、小谷真理訳)、水声社
サイボーグ政治学は、言語を求める闘争であるとともに、完全なコミュニケーションに対し−あらゆる意味を一気に翻訳しきってしまうような唯一のコード、すなわち男根ロゴス中心主義の主要ドグマに対し−立ち向かう闘争といえる。ここにこそ、サイボーグ政治学が雑音を推奨し汚染を称揚しながら、動物と機械の密通を満喫していたゆえんがある。これらの融合によって、男性やら女性やらといったカテゴリーは疑わしいものとなり、欲望の構造、すなわち言語と性差を発生させるよう仕組まれた効果は粉砕され、加うるに、西欧的主体に関するさまざまな再生産構造・様式についても解体が迫られるのだ。自然と文化、鏡と眼、奴隷と主人、肉体と精神といった対立項の構造・様式が、ことごとくゆらぎだす。わたしたちは、ほんらいサイボーグになろうと選択したわけではなく、むしろ「選択」という行為が必然的にリベラルな政治学と認識論を展開し、そこでは個人の再生産ばかりか、それ以上の規模でテクストの複製化が行われることまで想定されていたという次第なのである。
★マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』(原書1986年、柱本元彦訳、岡田温司解説)、人文書院
ベンヤミンにとって、天使たちが語る神の王国に噴出した追放と分離は、再構成されたものではない。停止し切断し括弧入れするいま=ときのなかで、被造物の空間の奥底で贖罪を待ちつづける散乱した破片、火花、痕跡を思い出し、「歴史をさかなでし」、歴史をさかのぼり、空虚な持続の形式を(直線的なものであれ円環的なものであれ)覆すことが可能となる。そこにおいて本質的に未完成な世界が、必然的、デーモン的に、粉砕への純粋な絶望を産み出さず、あらゆる墜落あらゆる消尽よりも強烈な然りの瞬間、無限に繰り返される破局を打ち破るしかしの突然の瞬間を、物のなかに招来することが可能となる。何度も挫折する脆弱なメシア的救済は、歴史主義の淫売宿から自由なだけではなく、より魅力的な未来探求の誘惑からも免れて、あらゆる神話の外に預言のイデアを守っている。それは未来のヴィジョンではなく、その時を名づけうる各瞬間の救済、言葉の根本的な象徴が、廃墟のただなかにある寓意の頂点に表象されうるその瞬間の救済である。どのような出来事の上にも、われわれをあらゆる状態・時間の崇拝から解放するために、終末論的なこの「留保」の影が色濃く落ちる。
★フリードリヒ・キットラー+シュテファン・バンツ『キットラー 対話 ルフトブリュッケ広場』(原書2004年、前田良三+原克訳)、三元社
再帰性というやつを僕は昔から信じられなかったし、今でも信じられない。その再帰性のかわりに、他動詞的関係性を使うんだ。つまり、内部へ向かうかわりに外部へ向かうというようにね。「それ自身」(sich)というのは、つねに内部へ向かう関係性だ。ところが「それ」(ihm)とか「あれ」(ihr)というのは、つねに外部へ向かう関係性だ。
★アラン・バディウ『倫理 〈悪〉の意識についての試論』(原書1993・2003年、長原豊・松本潤一郎訳)、河出書房新→more
〈不死なるもの〉−それこそまさに、〈人間〉に課せられうる最悪の状況が、さまざまな姿態を採って現れ強欲に憑かれてもいるそうした生の奔流のもとで彼がみずからを特異とする限りで、〈人間〉であることを証してくれる当のものなのだ。何であれ〈人間〉について考えようとするなら、つねにここから出発せねばならない。それゆえ、「人権」が存在するにせよ、それは死に抗う生の権利でないことはもとより、悲惨に抗って生き延びる権利ですらない。真の人権とは、それ自体の権利においてみずからを肯定する〈不死なるもの〉への権利であり、あるいはその主権を苦痛や死の偶発性に対して行使する〈無限なるもの〉への権利なのだ。
★シャンタル・ムフ『民主主義の逆説』(原書2000年、葛西弘隆訳)、以文社→more
排除なき合意の確立の不可能性を明らかにする「闘技的複数主義」の視座は、民主主義政治にとって根本的に重要なのである。それは十全に達成された民主主義が実現可能だという幻想に反して、民主主義的な異議申し立てをたえず開かれたものにしておくよう、私たちに強いるのである。不合意に余地を開き、それが表現される諸制度を育てることは、複数主義的民主主義にとって死活問題である。そして社会が「よく秩序づけられている」ことを理由に異議申し立てがなくなる時代が必然的に来るという考えは、放棄しなければならないのである。「闘技」アプローチは合理性や道徳性のヴェールのもとに偽ることなく、その境界線の真の本性とそれに付随する排除の諸形態とを認める。社会関係と同一性のヘゲモニー的な本性を受け入れることによって、境界線を中立化し、同一性を本質化しようとする、民主主義社会につねに存在する誘惑に打ち克つことができるのである。この理由によって、闘技的複数主義は、今日の多元主義社会を取り囲む声の複数性とその権力構造の複雑性を、討議モデルよりもはるかによく受け入れることができるのである。
★ルネ・シェレール『ドゥルーズへのまなざし』(原書1998年、篠原洋治訳)、筑摩書房
ドゥルーズのユートピアとは何か? それは現実的なものを信じることである。絶えず刷新される生への信仰。純粋な外の力と、常に特異なその到来への信仰。生は無限に貴く、かけがえがないものだ。なぜなら、生にはそれ自体以外にいかなる理由も原因もないからだ。生は「愚か」であるが、それゆえ全知に値する。なによりもまず信じなければならない。
★ジャック・ランシエール『不和あるいは了解なき了解−政治の哲学は可能か』(原書1995年、松葉祥一/大森秀臣/藤江成夫訳)、インスクリプト
政治的共同体とは、共通の本質や共通なものの本質の実現ではない。それは、共通のものとして与えられていないものを共有化することである。すなわち、見えるものと見えないもののあいだ、近いものと遠いもののあいだ、現前と不在のあいだに。この共有化が前提しているのは、所与のものを所与でないものに、共同のものを私的なものに、固有のものを非固有のものにつなぐ連帯を構築することである。この構築においてこそ、共通の人間性が議論され、表出され、効果を生むのである。たんなる人間性とその否認との関係によっては、どこにも政治的係争の共同体は生まれない。
★ジェレミー・リフキン『水素エコノミー エネルギー・ウェブの時代』(原書2003年、柴田裕之訳)、NHK出版→up!!more
世界中のすべての人びと、すべての地域社会が、自らの使う電力を自力で生産できれば、パワーの構図は劇的に変化する。もはやトップダウンではなく、ボトムアップになるのだ。各地域の住民は、遠く離れた中央の権力者の意のままにならずにすむ。必要な商品やサービスの多くを自給自足し、自分たちが働いて得た成果を自分たちで使う。一方、コミュニケーションとエネルギーのウェブを介して世界ともつながっているので、独自の商業用技術や製品、サービスを世界中の地域社会と分かちあえる。こうした経済面での自給自足が出発点となって、地球規模の商業の場でお互いが対等に頼りあう未来が開ける。これは、地域の住民が外部の強大な力に服従し依存していた過去の植民地時代のものとは根本的にちがう経済体制だ。
★ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの−情熱の政治学』(原書2000年、堀田碧訳)、新水社
レズビアンのSM的な性的行為にたいする保守的なフェミニストたちの批判の底流に流れていたものは、同性愛への嫌悪と偏見である。世間に受け入れられレズビアンでない人々に安心してもらうために、レズビアンはつねに厳格な道徳律に従うべきであるかのようにふるまうとき、その女性は、同性愛への嫌悪や偏見を行動として表しているのである。もしレズビアンでない女性たちも、SM的な性的行為に参加していることをもっとオープンに語っていたなら、フェミニストたちの批判もきっと、それを基本的にレズビアンの問題であると見なしたときのように、容赦のない激しいものにはならなかっただろう。同性愛への偏見や嫌悪と闘うことは、これからもずっとフェミニズム運動の一側面でありつづけるだろう。レズビアンでない女性によるレズビアン女性への軽蔑や差別は今なお存在しているが、こうしたことがつづくかぎり、女性のあいだのシスターフッドはありえないからである。
up!!★サーラ・スレーリ『肉のない日−あるパキスタンの物語』(原書1989年、大島かおり訳)、みすず書房
私は授業で第三世界の文学のことを教えるとき、第三世界というのは便宜上の言い方としてしか位置づけることができないのだと説明しようとして、たくさんの時間をとられてしまう。第三世界を見つけようとするのは、歴史とか故郷とかは実在するものだと思い込んで、いま自分のいるまさにその場所にそれらを位置づけようとはしない、そういう姿勢に似ています−こう言ってはみるものの、その声がわれながらばかみたいに聞こえる。すると、横槍がはいる。一つの顔、腑に落ちない表情の、注意を集中した、私と同性の一つの顔が、聡明さをひびかせて質問してくるのだ。先生は第三世界の文学を教えていらっしゃるのに、なぜ講義要目に女性作家にも平等なスペースを与えてないのですか? 私は顔をあげる。事情に通じている権威、ばからしい役どころ。平等とはいえないイメージが私の頭のなかで優先順位をあらそう−威厳あふれるイファットがいる、庭にたたずむママがいる、洗濯女のハリーマもいる、山羊をつれた無気味なダーディがいる。だが私自身がつけたくなるハンディをぐっと抑えて、言わねばならないことはわかっているのだ。なぜって、と私はゆっくりと答えるだろう、第三世界に女はいないのですから。
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